01 / 砥石山
砥石山の砥石屑で、磁器を焼いた。創業の窯跡は、同じ外山に位置する。
外山の砥石山は、伊予砥を産した砥石の生産地。県の資料は、砥石を産した一地区「砥山」の名が周辺に広がり、砥部と呼ぶようになったと記す。安永6年(1777)、多量に出る砥石屑を原料に磁器の焼成に成功した。上原窯跡はその創業の窯跡で、藩の奉行が生産をさせたと言われる。
- 安永6年(1777)に磁器の焼成に成功(町指定文化財)
- 砥石山は昭和57年頃に閉山(同)
- 町名は「砥山」から広がったと県の資料が記す
01 / 砥石山
外山の砥石山は、伊予砥を産した砥石の生産地。県の資料は、砥石を産した一地区「砥山」の名が周辺に広がり、砥部と呼ぶようになったと記す。安永6年(1777)、多量に出る砥石屑を原料に磁器の焼成に成功した。上原窯跡はその創業の窯跡で、藩の奉行が生産をさせたと言われる。
02 / 旧梅野商会
梅野商会は、砥部焼の生産・流通・販売を行った商会。主屋は明治38年建築の町屋建築で、蔵は屋根をトラス構造にして柱を減らし、中央を吹き抜けとした。砥部焼を上げ下ろしする造りで、蔵は令和2年に移築された。ともに国登録有形文化財で、登録名に「砥部むかしのくらし館」が付く。
03 / 窪田兵右衛門

明和8年(1771)の水争いで、下麻生村の組頭・窪田兵右衛門は首謀者と名乗り出て、倉敷で死罪となった。この争いを契機に赤坂泉がつくられたと記される。麻生村庄屋の文書は、倉敷の人々が建てた石塔が一夜のうちに円通寺へ飛び来たと記す。
くらし
東西9km・南北21kmの細長い町。北部は砥部川沿いの盆地状の地形で、松山市と重信川をはさんで接する。南部に向かうほど標高が高く、北ケ森(1010m)などの山あいで、冬は積雪も見られる。町公式は、県都松山市のベッドタウンとして発展してきたと書く。
2015年より −3.6%
22,424 → 20,480人
うち可住地 30.07km²
2024年
1世帯 2.4人
2020年
全国平均 6.1万円
2023年
人口1万人あたり 8.3
2023年
人口は2005年以降(市域変更)。2005-01-01 に合併。2005年調査から市域が変わっている。
この3項目は全国横断のデータ源を探しています。推測値では埋めません。
かたち
南北のながさ
20.9km
区間ごとの所要時間は公式に記載が無いため、出していません。
気になったら、町に聞いてみませんか。