01 / 隕石
富永村の水田に落ちたと伝わる石。呼び名は、当時の村名の「米納津」。

天保8年(1837)6月11日(西暦7月13日)の夕方、富永村に落ちたと伝わる隕石で、市は重さを31.65kgと記します。明治32年に帝国博物館へ寄託され、当時の村名から米納津隕石と呼ばれました。実物は国立科学博物館で展示され、落下地には昭和37年の記念碑が建ちます。
- 重さ31.65kg(市の記す値)
- 天保8年(1837)に落下と伝わる
- 落下地の記念碑は昭和37年
01 / 隕石

天保8年(1837)6月11日(西暦7月13日)の夕方、富永村に落ちたと伝わる隕石で、市は重さを31.65kgと記します。明治32年に帝国博物館へ寄託され、当時の村名から米納津隕石と呼ばれました。実物は国立科学博物館で展示され、落下地には昭和37年の記念碑が建ちます。
02 / 私塾

1833年(天保4年)、鈴木文臺が粟生津村に創った私塾です。「困った人を救うために学ぶ」を学是に、1912年までの約80年で1,000人を超える塾生を送り出しました。門下生には、大河津分水の建設を政府の要人や国会に訴えた人がいます。市は長善館址碑と所蔵資料を指定しています。
03 / 記念碑
信濃川補修工事が完了した記念の石碑で、形は陥没した自在堰を模したものです。台座には自在堰のコンクリート塊が用いられ、旧可動堰(1931年)の堰軸の延長線上に建ちます。補修工事の概要とともに、工事の総責任者だった青山士の言葉が刻まれています。
くらし
2006年3月20日に旧燕市・吉田町・分水町が合併した市です。吉田・米納津・粟生津が1954年に合併した吉田町の名は「米」と「粟」を「吉」き田に作る意味から、分水町の名は大河津分水を讃えて決まりました。国上山の五合庵は県指定史跡「良寛修行地」の一部です。玄関口はJR越後線の南吉田駅です。
2015年より −3.2%
81,876 → 77,201人
うち可住地 104.45km²
2024年
1世帯 2.7人
2020年
全国平均 6.1万円
2023年
人口1万人あたり 9.2
2023年
人口は2010年以降(市域変更)。2006-03-20 に新設合併(吉田町・分水町)。2010年調査から市域が変わっている。
この3項目は全国横断のデータ源を探しています。推測値では埋めません。
かたち
南北のながさ
15.4km
区間ごとの所要時間は公式に記載が無いため、出していません。
気になったら、町に聞いてみませんか。