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よみもの

45401 / たかなべちょう

宮崎県 児湯郡

高鍋町

古墳の盗掘に胸を痛め、石を彫り続けた。

高鍋大師|岩岡保吉の石像

Photo by 原田純児 (CC BY-SA 4.0)

01 / 持田古墳群

掘り起こされた石棺が墳頂に据えられ、「石舟塚」と呼ばれてきた。

Mochida No.15 Ishifunezuka.jpg
Photo by MChew (CC BY-SA 4.0)

15号墳は墳長46mの前方後円墳。舟形石棺は江戸時代に掘り起こされ、後円部の墳頂に据えられていました。最大の1号墳(計塚)は、以前は「天秤塚」と書いて「はかりづか」と呼ばれたようです。出土品の多くは昭和初期に県外へ流出しました。

  • 国史跡(昭和36年指定)
  • 15号墳(石舟塚)墳長46m
  • 1号墳(計塚)墳長120m

02 / 黒水家住宅

代々の兵法家が住んだ家老屋敷に、茅葺の主屋が建つ。

黒水家は高鍋藩で代々兵法家の家柄で、住宅は10代藩主に仕えた12名の家老の一人、黒水長愷の住居で、家老屋敷と呼ばれます。主屋は寄棟造りの茅葺で、建築年代は不詳ながら文化・文政頃(1804〜1830年)と推定され、玄関の式台は3段です。

  • 町指定有形文化財(平成2年)
  • 主屋は文化・文政頃と推定
  • 平成7年から一般公開

03 / 藩校明倫堂

藩校「明倫堂」の扁額は、7代藩主・秋月種茂の直筆。

1778年、7代藩主の秋月種茂が藩校「明倫堂」を開設し、身分を問わず門戸を開きました。扁額は種茂の直筆です。その前の1761年には、多子農民への扶助制度が始まっています。明倫堂は1873年に廃止されました。

  • 1761年 多子農民への扶助制度
  • 1778年 藩校明倫堂完成
  • 1873年 廃止

くらし

市街地は、小丸川と宮田川にはさまれた平地。

  • 人口2万人規模
  • 郡部の町

町公式は、高鍋町を宮崎県でもっとも小さな自治体と紹介し、日常生活が自転車で事足りる町だと案内します。高鍋藩秋月家3万石の城下町で、地名や町並みに名残があると記します。玄関口はJR日豊本線の高鍋駅です。

住んでいる人
19,922人
19952020

2015年より −5.2%

22,886 → 19,922人

面積
43.8km²

うち可住地 36.32km²

2024年

世帯数
8,685世帯

1世帯 2.3人

2020年

家賃(借家の平均)
3.8万円

全国平均 6.1万円

2023年

医療
病院2/診療所21

人口1万人あたり 11.5

2023年

面積43.8km²うち可住地36.32km² / 83%
面積と可住地を同じ縮尺でe-Stat B1101 / B1103
待機児童
—保育所等 7園
住宅取得補助
—
年平均気温
—

この3項目は全国横断のデータ源を探しています。推測値では埋めません。

かたち

4市町村に、接している。

日本のなかの高鍋町32.128°N 131.503°E
東京大阪高鍋町
高鍋町の領域
境界:国土数値情報 N03

南北のながさ

9.3km

新富町・川南町・木城町・西都市

区間ごとの所要時間は公式に記載が無いため、出していません。

高鍋町は、こういう町です。

  1. 01高鍋大師は、持田台地の先端に石像が林立する石像群。昭和初期の古墳の盗掘に胸を痛めた岩岡保吉が、被葬者の霊を鎮めようと40歳で彫り始め、町公式は700体以上と紹介する
  2. 02持田古墳群(国史跡)は小丸川北岸の台地と沖積地に85基が並び、日本遺産「古代人のモニュメント」の構成文化財。石舟塚は墳長46mの前方後円墳で、舟形石棺が出土した
  3. 03黒水家住宅は町指定有形文化財の家老屋敷。7代藩主・秋月種茂が藩校明倫堂を開いた城下町で、高鍋神楽は旧高鍋藩領の社に伝わる神楽の総称、石井十次の生家は県指定史跡

気になったら、町に聞いてみませんか。